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小早川秀秋の寝返り
正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やし、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる[2]。
小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。吉継は秀秋の裏切りを予測して温存していた500の直属兵で迎撃し、15600の小早川軍を300メートルも後退させた。この時小早川軍の武将・松野重元は『盾裏の反逆は武士としてあるまじき事』として一隊を率い傍観する。ところが、藤堂高虎などの内応策によってそれまで模様眺めをしていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返る。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変する。
西軍は有利な鶴翼の陣をひいていたものの、鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くが裏切りや傍観をしていたことになる。
西軍敗走
西軍総崩れとなるなか、島津義弘隊が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退するという、「前進撤退」(いわゆる島津勢の敵中突破退却戦)を開始。この行動に福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は島津豊久や阿多盛惇(長寿院盛惇)を犠牲にしわずか80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。他の西軍部隊は壊滅あるいは逃走した。
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